■ 「幽玄」についてウエブサイト<花と幽玄の舘>から引用する。
 「幽玄」とは、艶にして優雅なる変身の理想であって、和歌や連歌においても「幽玄」は最高の理想美とされている。『花鏡』においては、ゆったりと上品に構えた体つきが、能の演技に表現された人体の幽玄であり、言葉を優しくして貴人の日常習わしとされる言葉づかいをよく研究してせりふを優雅にするのが、詞章における幽玄である。
 さらに謡の場合には、節まわしが流麗でのびやかに渋滞なく聞こえれば、これが謡の幽玄であり、舞は稽古が十分に行きとどいて姿態の風情が美しく静かな表現により効果が面白ければ、これが舞の幽玄である。また、役に扮する演技については、老・女・軍三体のそれぞれの風情が美しければ幽玄といえる。そのほかに、鬼の幽玄を説き、男女僧俗、田夫野人、乞食非人に扮する場合でも、「花の枝を一房づつかざした」ような心持ちで演じよ、とあり、花の枝で幽玄を表そうとしている。一方、『三道』においては、女体の美がもっぱら幽玄で説明されている。世阿弥の年齢とともにその定義が変化している。


■ 世阿弥は、伝書につぎのように記している。
 能に、強き・幽玄・弱きを知ること、おほかたは見えたることなれば、たやすきやうなれども、真実にこれを知らぬによりて、弱く、荒き為手(して)多し。 (…中略…) まづ、弱かるべきことを強くするは、偽りなれば、これ荒きなり。強かるべきことに強きは、これ強きなり。荒きにはあらず。もし、強かるべきことを幽玄にせんとて、ものまね似足らずば、幽玄にはなくて、これ弱きなり。さるほどに、ただものまねにまかせて、その物になり入りて、偽りなくば、荒くも弱くもあるまじきなり。また、強かるべき理過ぎて強きは、ことさら荒きなり。幽玄の風体よりなほやさしくせんとせば、これ、ことさら弱きなり。この分け目をよくよく見るに、幽玄と強きと、別にあるものと心得るゆゑに、迷うなり。この二つは、そのものの体にあり。たとへば、人においては、女御・更衣、または、遊女・好色・美男・草木には花の類。かやうの数々は、そのかたち幽玄のものなり。また、あるひは、武士・荒夷(あらえびす)、あるひは、鬼・神、草木にも、松・杉、かやうの数々の類は、強きものと申すべきか。


■ 土屋恵一郎著 『能』より
 幽玄という言葉程、能の美学の根本であるかのように言われながら、その内容がよくわからないものはない。それがわからなくなってしまったことの理由ははっきりしている。世阿弥の言葉が身体についての批評の言葉であったにもかかわらず、その幽玄という言葉だけが、情緒のある雰囲気を示すものとして、あまりにも散文的に理解されてきたからである。
 世阿弥が能の伝書を書くには、はっきりした目的があった。その言葉はけっして曖昧なものではありえない。もしその言葉が曖昧模糊としたものであるならば、伝書はその役割を果たすことができない。いかなる場合もその言葉が身体への批評であり、身体というさし示す対象をもっていたことが、その能芸論を、演劇史がもちえた世界最初の演技論としているのである。